映画「ミスター・ノーバディ」レビュー:“ビッグクランチ宇宙論”における存在についての思考実験

2023-08-19 アート映画フシギ
★9

作品情報

タイトル:ミスター・ノーバディ 公開年:2009年 上映時間:137分 監督:ジャコ・ヴァン・ドルマル あらすじ:

2092年、科学技術の進歩により不死が実現した世界で、唯一命に限りのある118歳のニモは、死を目前にして過去を回想する。 最初の選択は、9歳だったニモが別れた両親のどちらについていくかで始まった… (Filmarksより)


感想・評価

人間が不死になった未来の世界。 主人公のニモは、最後の「死ぬ」人間だ。 「死ななくなった」人類の注目を受けながら、彼は“経験”した数々のエピソードを追想する。

初見はモヤっとした印象で終わってしまったのだが、 最近観直したら凄まじく深淵な映画だった。 鑑賞後、「自由に、精一杯、笑って生きていればいいんだ…」とブツブツつぶやきながら嗚咽をあげていた。 我ながら意味不明なほど食らっている。

初見時は**「で、結局どれが本当のニモの人生なんだろう?」**などと、劇中に登場する“インタビュワー”と同じように、明確な結論を求めてしまった。 しかし、この映画は答えのなさこそがエッセンスとして提示されているのだ。

この映画が示しているのは「バタフライエフェクト」(すなわち「原因と結果の多様性」)に留まらない。 「あらゆる可能性があり得る」という視点よりさらに一歩踏み込み、「あらゆる可能性は並行して実在する」という考えが示されている。

この作品を簡潔に説明するならば、 「“ビッグクランチ”に伴って時間が逆行する」という宇宙観を採用のもと、宇宙の拡大と収縮に伴って“延々と人生が繰り返されている”ことを悟った男の話 だと僕は解釈する。

※個人的には、宇宙が迎える終焉はビッグクランチでもビックリップでもなく、熱的に完全な死を迎える“ビッグフリーズ”の考え方が好きだ。 この映画が好きな人はぜひ、“ビッグフリーズ”の考え方のもと、宇宙の終焉の様子と人類の存在意義に触れた「TIMELAPSE OF THE FUTURE」という動画もぜひ楽しんでほしい。

あらゆる可能性は並行して実在する」という主題のもと、ニモの人生における「あらゆる可能性」が同時並行で描かれながら、この映画は進行していく。

離婚する両親のどちらについていくか、 三人の幼馴染の誰と恋に落ちるか、 あるいは、瞬間瞬間のささいな判断さえも・・・

描かれる一つ一つの人生には美しい瞬間もあれば、苦難もある。 観客は「ツリー・オブ・ライフ」的な、神の視点のような形で、ふわふわとただ、それらを観察する。 そしてそのドラマ一つ一つに自己を投影し、自らの人生における「あらゆる可能性」に思いを馳せる。 そこから、「なぜ、いま自分はこの自分になったのだろう?」という思索のテーマを持ち帰ることができる。

ラストシーン。 ニモは息を引き取り、ニモの宇宙は停止する。 そう、この映画で描かれている世界はすべて「ニモの宇宙」なのだ。

映画で描かれる世界は、2092年2月12日に必ず“ビッグクランチ”を迎える。 これは、いわゆる宇宙の寿命としてはいささか短すぎるだろう。 ここについては、ニモという存在の「あらゆる可能性」の範囲のリミットが2092年2月12日なのだと、私は解釈している。 その最も限界まで生存したパターンの宇宙が、老齢のニモの世界であり、途中で死亡した、あるいは最初から生まれなかったパターンにおいては「箱庭」の世界で“ビッグクランチ”を待つ、という構造だ。

老齢のニモは今際の際に「今日は私の人生で最も素晴らしい日だ」と述べる。 そして“ビッグクランチ”が起こり、息を吹き返したニモは高らかに笑いながら時を逆行していく。

宇宙のからくりを悟ったニモにとって、死の瞬間とはまさに映画のエンドクレジットや、やり切ったゲームのエンディングのような、達成感と充実感に満ちた瞬間なのだろう。 ましてや、「リミットまで生きた」となれば「今日は私の人生で最も素晴らしい日だ」という遺言や、“巻き戻し”中の高笑いも頷ける。

この映画が提示しているのは、ひとつの宇宙観に沿った自己の意識・存在についての思考実験だ。 宇宙全体が永遠に“再生と巻き戻し”を繰り返すなかで、自己の存在もその巨大な波の中の、ほんの小さなの範囲のなかで、寄せては返し、寄せては返し… 何度も何度も、でも、毎回少しずつ異なるストーリーが紡がれているというのだ。

仏教的な“輪廻”の思想とも少し異なるが、極めてポジティブで救いのある死生観だと僕は思う。 どんな生き方をしても、どんな失敗をしても、あるいは志半ばで死んでしまっても、 自分の納得のいくように精一杯生きるチャンスが、何度でも訪れるというのだから。

最後に、劇中ビビビッとシビれたシーンを紹介しておきたい。

昔々 パパとママがいた 名前は“パパとママ” 彼らは かわいい赤ちゃんに“かわいい赤ちゃん”と名付けた 「その」赤ちゃんは 「そこ」で 「その日」に生まれた

赤子視点のシーンは「メッセージ」のようなプリミティブな表現が満載で、感覚に浸ることができる。 ママの髪、唇、匂い。 パパの体毛、腕時計、時計の針…

この世に存在するものは 目で見える 僕にはママの目が見える でも僕の目は見えない じゃ 赤ちゃんは存在してるの? 僕は本当にいるの? なぜ僕は僕で 他の人じゃないの?

過去は思い出すのに 未来は違う “なぜ?”とママに聞いたら “なぜばっかり聞かないで 複雑なのよ”

自分自身も小さい頃、お母さんと全く同じやりとりをしていたことが、感覚的に蘇る。

恋、勢い、秘め事、冒険、高揚感・・・ 「若さ」にとってあまりにも大切なものが、あまりにも、あまりにもたくさん詰まっているこのシーン。 そしてその全てが凝縮されたPixiesの「Where is My Mind?」のBGM。 とてもではないが、涙無しには見られない。 何度観ても泣いてしまう。

大事故を起こし、瞬きすらできなくなったニモ 念じて、事故が起きる前に戻ろうとする これは、自分も悪夢を見た時に本当にやる「脱出方法」だ

作品への理解が深まると、これは無限に繰り返す宇宙の進行と逆行のなかにおいて、「ニモが生まれなかった回の宇宙」だということがわかる。

元々 両親がすれ違ったか 父親が5歳の時に ソリの事故で死んだか それとも君は 大多数の人間と同じで遺伝情報が到達しなかったか 先史時代に君の先祖の女性が死んで系譜が断ち切られたか とにかく こっち側に 君はおらんのだ

どことなくこの場面における構図にキューブリックを感じるのは、「2001年宇宙の旅」へのオマージュだろう

視聴リンク

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採点

この映画の評価は…